偽の預言者の見分け方

みなさま、ごきげんよろしく。


もう春は目前だと言いますのに、棚の上の温度計は10度を指しております。
事情がありまして、暖房が使えませんので、コートを着たままキーボードを叩いております。
ご心配なく。電気を止められているわけではございません。


さて、

オオカミは羊の皮をかぶってやってくる、と我々は聞いておりますが、
羊の皮をかぶったオオカミと本物の羊を、どうやって識別したらよいか、
その見分け方も教わったという方は、おそらく多くはないのではないでしょうか。

実際、オオカミが来たら羊は逃げることができます。
しかし、羊を装って来るオオカミに対しては、目と鼻の先に来るまで、
気づくことができませんので、容易に餌食となってしまうことでしょう。

オオカミは、賢いのです。そのままの姿で近づけば目的を達せられないと知り、
自らの本当の姿を隠して仮の衣装をまとい、羊たちを騙す程度には。

一方、羊はどうでしょう。賢くないのでしょうか。
オオカミの変装を見破るほどの眼力や工夫は、羊には望めないのでしょうか。

騙されないためには、蛇の賢さを持たなければならない。などと言われましても、
ではどうすれば賢くなれるのか、その方法がわからないのです。
多分賢い人はわかっているのでしょう、しかし、まだ賢さを身につけていない人には、
わからないのです。賢くないからです。

経験の問題でしょうか。何度も騙されてはじめて、知恵が身に付くのでしょうか。
たしかに、そうやって学習して行くのは、ある意味自然な成り行きです。
騙されたときにはじめて、自分が騙されたことがわかります。それまでは、
騙されていると気づいていなかったのですから、騙されない仕方を学ぼうとも思えません。

しかし、羊の例で言いますと、騙されたことに気づくときというのは、
オオカミが羊の皮を放り出したとき、すなわち、羊にとっては、
自らが食べられる瞬間です。

自らの命を失ってはじめて、自分が騙されていたことに気づくのです。
これは手痛すぎる教訓です。

しかし、間一髪で逃げ出すことのできた羊も、いるかもしれません。
その羊は、幸運に感謝しつつ、次こそは騙されまい、と固く誓うことでしょう。

ただ、それはオオカミにとっても同様で、逃がしてしまったことを悔やみつつ、
次こそはもっとうまく変装して羊を騙してやろう、と決意を新たにすることでしょう。

オオカミと羊の競争のよう。どちらも等しく、より賢くなろうとしているのです。
こんな中で、騙される側の羊に、オオカミを上回って、
騙されないようになる可能性はあるのでしょうか。


思いますに、そもそも、羊が騙されやすいのは、オオカミを警戒していないからです。
言い換えれば、世の中に、悪意を信じていないからです。

羊は、多分、賢くないわけではありません。ただ、善良なのです。
世の善良さを無邪気に信じて疑いを持たないほどに、善良なのです。

そんな羊の目には、出来のよくない張りぼての羊でさえも、立派な羊に見えてしまいます。
良いもの、立派で、美しいもの、そんなものこそ、見たいと願っているからです。
いわば、善なる色眼鏡で見た世界は、すべてが善きものになってしまいます。
オオカミの変装がいくらまずくても、羊がこんな状態では、見破れるはずもありません。

言ってみれば、羊は、オオカミに騙されているのではなく、自分自身を騙しているのです。
鋭い牙の下で、羊は、オオカミの狡猾さではなく、自らの愚かさを悔やむのです。

運よく生き延びられた羊は、従って、自分の問題を反省し、修正しようとするでしょう。
あまりにきつい色眼鏡は、かえって身を滅ぼす原因になりかねない、と。
この羊は、もう少し薄い色の眼鏡を選ぶことでしょう。

これが、羊の学びであります。


――― にせものは、ほんものより、ほんものらしく見える


だからと言って、にせものだけを責めるべきではありません。
にせものをほんものらしく見せているのは、自分の目でもあり、
ほんものを見たいという、自分の心の願いでもあるのですから。



などと、打っておりますうちに、日も暮れて、ますます指が冷たくなって参りました。
とりとめない内容でごめんなさい。
穴あき手袋があると便利かもしれません。


みなさまもお体にはお気をつけください


ははそ


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