恐怖の探究(一)
恐怖についての論考であります。 しかしながら、始めるに際しまして、すでに筆者はつまづいております。 恐怖について書く者は、恐怖しているのであるか、それとも、恐怖していない平常心をもって、外の対象たる恐怖について記すのであるか、わたしはどちらなのでありましょう。 現にいま恐怖している者が、わざわざ筆をとって考えを綴ることができるでしょうか。いや、怖いからこそ、彼は恐怖から逃げようとするでありましょう。そのとき、書くという営為は彼の視界に入ってくるものでしょうか。 いかにも、自分は今恐れを感じているという自覚が得られたならば、彼はもはや書こうとはしないでしょうし、あるいはそう自覚できるということは、すでに恐怖は九割方過ぎ去ったとみて間違いではありますまい。 恐怖の恐怖たるゆえんは、その正体がはっきりとわからないという点にあります。明晰に理解されるような恐れは、人を驚かせることもあるかもしれませんが、取るに足りないものであって、人を日常から引き離し、何も手につかなくさせ、あるいは生活の破滅へと追いやることもないでしょう。 この恐怖の中にあって留まっているものは、それが人であれ人でない何かであれ、必ずペンを取ろうとするでしょう。まだ言葉を操られぬ稚児にあっては、そのとがった先端で、紙を引き裂いてまわるでありましょう。彼は言葉を知らないので書けないのですが、どうしてよいか方途がつかず、結局気の狂ったように目前の白紙にぶつけるしかないのです。もっとも、言葉を習得した大人であっても、きちんと文字を綴るかどうかはあやしいところですが。 恐怖こそ、人を人らしくあらせる情動の最たるものかもしれません。 そのよって来たる所、淵源が、見えません。きはめて不明瞭な感情なのです。生きる人をして立ち止まらせずにはいられません。前向きな活力を奪う、負の力なのです。 簡単に申しますと、筆者が『東都百景』を書きおこしましたのは、この感情ゆえと、今では思います。他に術はあったかもしれませんし、他によい解決法を考えつけなかったわたくしの賤劣な頭脳のせいかもわかりませんが、書くより他にどう仕様もなかったのであります。 それで何か解決したかと言うと、難しいところです。解決などは到底望むべくもないことですが、何かしらの変化、それはいわゆる自己のでありますが、はあったのでは...